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残された唯一の参籠所
高野山
女人堂
高野山には、高野七口と呼ばれるように、7つの参詣道がありました。各登り口に女性のための参籠所(女人堂)が設けられましたが、現存するのはこの不動坂口ただ1ヶ所です。この女人堂までの山道は世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に高野参詣道として登録されています。
ナビゲーター:霊宝館館長 大森 照龍さん
女人堂はどのような文化財なんですか?
この女人堂の歴史はすごく古いと思います。女人堂という名前がついたのは江戸時代くらいです。江戸時代になると高野山に参拝する人が増えてきましたが、当時は、山内に女の人は入れませんでしたから、7つあった山内への入口に、それぞれ女性が過ごす為のお堂が建てられたんですね。
夫婦でお参りにきたうちの旦那さんだけが山内に入って、その帰りをなるべく近くで待てるというようにしたわけです。女性の方々はなるべく結界の近くに行って中を覗くようにしてお参りをしていたそうです。
特にこの女人堂(不動坂口)は重要な場所で、例えば高野山の周辺の土地で女の人が悪いことをすると、ここで裁判が行われていました。この場所で罪状が言い渡されたり、刑期を過ごしたという記録もあります。
明治時代に女人禁制が解かれてからは。女人堂はその数を減らし、現在残っている女人堂は一つだけです。
なぜ、この女人堂だけが唯一残っているのでしょうか?
それは、高野山の歴史と深い関係があると思います。実際に女人堂を見てもらうとわかるのですが、ここには役行者(えんのぎょうじゃ)が祀られています。役行者というのは修験道の開祖でお大師様より前の人になります。
現在、女人堂が建っている場所には、役行者を祀っていることからも修験道の人が多く出入りをしていたようですが、恐らく修行のスタート地点にしていたのではないかと思います。高野山に来た修験の人々が、女人堂を出発し嶽弁天を通り大門の方から地方へ行くというルートを辿っていったのではないかと考えています。このルートは鉢をひっくり返した時にできる縁の部分に似ていることからお鉢巡りと呼ばれていて、高野山を囲むように道ができているんですね。
この女人堂は、外から見ると増改築が繰り返されて昔の面影はありませんが、最近の調査では内部構造に室町時代のものが発見されています。その頃から修理や改築をされながら大切に使われていたということがわかりますね。
女人堂の見どころを教えてください
やはり、修験道の役行者、胎蔵界の大日如来、弁財天の三尊がお祀りされているということですね。御朱印も3種類授かることができます。高野山を考える上で神仏習合というのは絶対に切り離せません。高野山単独ではなく、熊野や吉野一帯の霊場を含めて世界遺産ですからこの建物にはその所以が詰まっているわけです。
今はバスですぐに山内に行けますが、是非高野山に来る際には最初か最後だけでも女人堂を訪れてもらうと更に深く高野の歴史を感じることができると思います。
大森 照龍(おおもり しょうりゅう)
1961年、栃木県生まれ。高野山霊宝館館長・最勝院住職。
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