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発掘を通じて往時の景色を描き出す

#再現#奈良#建築#目黒 新悟#興福寺

奈良文化財研究所

目黒 新悟さん

2021年、奈良文化研究所による興福寺の発掘調査で、平家による南都焼討の際の火災痕跡(炭や焼土)が発見されました。1998年以来、興福寺境内の発掘調査を行ってきた中で、南都焼討の焼土と、その後に再建された痕跡を特定できたのは初めてだったそうです。東大寺七重塔の復元案研究など、かつて存在した古代建築の姿を想像し、日本建築のルーツ解明に挑む目黒研究員にお話を伺いました。

どんなきっかけで文化財研究に興味を持たれたのですか?

学生時代は建築家になりたくて建築学科で勉強していました。日本だけでなく、海外の建築にも興味があり、特にイタリアの近代建築をかっこいいなと思っていました。1年間イタリアのミラノ工科大学に留学をして、現地の建築設計事務所でインターンもしていました。

そこで1番感じたのは、彼らはとても歴史をリスペクトしてるということです。建物を創るときに、その建物単体のデザインをすればいいのではなく、街並みの中においてどんなデザインであるべきか、歴史的な町並みを壊さずに、それをより良くするためにどうしたらいいかという点を重視しているのを肌身に感じました。そこで、建築の歴史を知ることが、すごく大事だと気づいたことが、今の職に繋がる大きなポイントでした。

なぜ、奈良を活動フィールドにされたのですか?

一番古い建築が残ってるのが奈良だからです。今、全国に残っている中世や近世の建築も古代の建築から発展して、今のような形に変化しています。日本建築の原点を知るには奈良しかないと思ったからです。

歴史的遺産と都市が併存しているようなミラノに比べて、奈良は奈良公園やお寺の境内といったように現代の様相とは切り離された空間が点在しています。奈良市の中心部分も、元は平城宮があったところですよね。もし、この周辺に新たな建物を建てようという話になれば、逐一私たちが現場に赴き、遺跡を壊さないかなど確認をしています。それだけ、奈良の地下には埋蔵文化財が多く埋まっていて他の都市とは勝手が違います。この埋蔵文化財を守ることも私たちの仕事の一つですね。

発掘調査とはどのくらいの深さを掘るのですか?

平城宮跡は今の地表面から数十センチ以上も掘って、やっと出てくるという感じなのですが、興福寺の場合は特殊で、5センチ10センチ掘っただけで、古代の痕跡が出てきます。これは興福寺では、奈良時代からずっと同じ土地に建物が建っていたという証拠です。昔の人達も、今と同じ地面の上を歩いていたんですね。

発掘調査では、建物の残骸や当時使われた道具が綺麗な状態で見つかることがあると思います。現代の感覚では、そうしたものは再開発の際に除けてしまうと思うのですが、なぜ埋まったままになっているのでしょうか?

当時の人たちも、多分綺麗にしようとしていたと思いますが、重機がない時代なので、頑張ってそれを除けるというよりは、上に土を被せて隠しちゃうという整備の仕方が多かっただろうと考えています。

建物が消失する時は、基本的に石でできた基壇の上に建つ木造部分が潰れるわけですが、整地の際は基壇の周りにある雨落溝にゴミや瓦礫を捨てて土を被せて整地していました。このようなプロセスを長い歴史の中で繰り返しているので、現代に至るまで様々な物が残っているのです。

歴史を研究する醍醐味とは?

一つは、建物の歴史を調べていくことで、この時代にこういう形の建物があったから、今の奈良の街並みがこうなってるのか、という事が見えてくることです。例えば、南都焼討があって東大寺の主要伽藍のほとんどが焼け落ち、建物を再建することになったから、技術革新によって新しい建築の形が生まれ、それの影響が広がっていきました。もし南都焼討が無かったら、大仏殿をはじめとする当時の再建建物の形が生まれなかったのだろうと想像すると非常に面白いですね。

また、最近やった仕事では鎌倉時代の東大寺七重塔の復元案の作成をしたのですが、なんとこの塔は現在の興福寺五重塔の2倍ほどの高さがあったようなのです。日本に現存するのは五重塔と三重塔しかなくて、七重塔は現存していないのですが、過去に存在していた事実は残っているので、調べて図に起こすことによって、当時の人たちが見てた景色を見られるようにするというのも、この仕事の醍醐味ですね。

今後、発掘したい場所や物は何ですか?

今、関心を持っているのは、興福寺の東金堂周辺です。一番古い飛鳥寺から順に見ていくと、古いものは塔が伽藍の中央に建っていますね(下の図参照)。ところが興福寺は伽藍の中心から外れたところに塔が建っています。

『日本建築史図集』(彰国社)参照

東大寺では塔ごとに回廊が作られるようになっています。この発展過程で興福寺に注目すると、東金堂と塔が一つの区画で囲われているんですね。この形式は非常に珍しいものです。ですからこの東金堂と塔の間に本当に区画がなかったのか気になっています。発掘をしてみると、それが確認できるので掘ってみたいです。やっぱりここには無い、ということを確かめるのも一つ大事なことだと思っています。

興福寺五重塔の魅力や見どころを教えてください

今の五重塔は、室町時代の1426年に建てられたものです。しかし礎石や平面構成は奈良時代からずっと踏襲していると言われています。高さに関しても奈良時代の記録が残っており、現在の姿はだいたい奈良時代からこのような形だったということが想像できます。外観にも奈良時代の建物だと感じることができますが、部分的に中世の技術が垣間見えるところもあり、そこが面白いところだと思うので御紹介します。

 

まず五重塔の屋根を支える組物に注目してみましょう。組物と部材の間、上図の断面図で赤く塗った部分は、奈良時代の建物だと隙間が空いているのですが、興福寺の五重塔の場合は隙間が木材で埋められており、構造上の強度が高められています。そしてこの部分が白く塗られているのですが、デザインを崩さないようにする工夫だったと思われます。

また、内部の構造にも室町時代の建築の特徴が見られます。屋根が下がらないように斜めや横に部材を入れて補強しているんですね。そのために奈良時代の五重塔に比べ、屋根が分厚くなっています。

奈良には興福寺の他にも五重塔がありますが、その一つ一つに特徴があるので、是非比べてみると面白いと思います。

目黒 新悟(めぐろ しんご)

奈良文化財研究所 都城発掘調査部平城地区遺構研究室研究員 専門は建築史。古代・中世の東大寺東塔の復元研究等を担当。建築史の観点から、発掘遺構、文献史料、類例比較等に基づいて、現代の誰も見たことのない、往時の姿を描き出す。 近年は興福寺境内の発掘調査を担当。

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