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無数に建ち並ぶ石塔に込められた人々の思い

#木下 浩良#武将#歴史#高野山#高野山歴史散策

高野山

奥之院

高野山2大聖地のうちの1つ、奥之院。この道の奥で弘法大師・空海は現在も瞑想をされています。1200年前に弘法大師・空海が入定されてから今日に至るまで、一般庶民から時の有力者まで日本中の人々が祈りを捧げるこの地には、無数の石塔が立ち並んでいます。

ナビゲーター:木下 浩良さん

奥之院の成り立ちについて教えてください。

やはり、奥之院の始まりは空海さんが入定されたことからですね。ですから、1200年の歴史があります。

現在、奥之院の道沿いに石塔が無数に建ち並んでいますが、古い時代には木で作られた卒塔婆が立っていたそうです。当時はまだ石材を加工する技術がなかったんですね。技術が確立して石塔が建てられるようになったのが鎌倉時代の中期以降です。町石道を形づくる長石は縦に細長いですよね。あれは恐らく、元々は長い木を一本加工した木材を使っていた影響で長い形になったんじゃないかと思います。

他の霊山、例えば三重県の浅間山なんかは今でも木の卒塔婆を建てていて、かつての奥之院はあのような様子だったのでしょう。

奥之院の道自体は、空海さんの時代からあったと思います。その後、藤原道長がここにきたときには、御廟橋の仮橋がかかったとされていますので、その時代(10~11世紀)には、もうこのコースはできていただろうと言えますね。

なぜ石塔を立てるのですか?

奥之院は弥勒の浄土であるという信仰があり、お釈迦様が入滅されて56億7千年万年後に弥勒菩薩がこの世に現れて人々を救うとされています。その場所の一つが奥之院とされており、空海さんもここで弥勒菩薩を待たれています。それに倣って人々がここに自分の墓や親族の供養塔を置くことによって、その時の為に場所取りをしているんです。そういった意味もあるとされています。

ここには諸大名や、時の有力者が立てた立派な石塔が沢山目に入りますが、石塔は大きさに関係なくどんな人でも同じように扱われて、一般庶民が建てた小さなものも武将や諸大名の大きなものまで全て平等に弥勒の浄土を待っているんですね。

石田三成の石塔

この石塔が戦国武将のもので最大級の石塔です。3mくらいあります。石田三成が生前葬をした時のものです。石碑を見てみると天正18年3月18日と書いてあります。その横に宗應と書いてあります。これが所謂戒名のようなもので、石田三成が出家した時の名前です。逆修というのが生前葬を表すものです。

当時の三成はまだ30歳と若く4万石くらいの石高だったのですが、このように立派な石塔を建てるのは三成の真面目さが伺えますよね。当時はあまり大きな石塔がなかったので、すごい目立ったと想像できます。私は、三成が実際にこの石塔を見にきたのではないのかと考えています。そう思うとすごい感慨深いですね。

奥之院とはどういう場所ですか?

この奥之院には何人も受け入れる体質があります。仏教で言うと禅宗関係の方の石碑だったり、もっと言うとキリスト教の信者の方の石塔だったりと多種多様な宗派の石塔が存在します。ここだけは別腹というか、いろんな宗派の人が来ていいんだというような考え方が空海さんの時からあると思います。この考えが重要で、仏教に限らずいろんな宗派、宗教の方が来ているのが奥之院という場所で、石塔にはそれが証拠として残っています。

そして、空海さんは国籍や人種などを超えて本当に全ての人々の平和を願って入定されました。

石塔を読み解くことで、奥之院の歴史が見えてくるのですね。

18歳で高校を卒業し、高野山大学に入学して44年経ちますが、奥之院には色々なものを見つけてきました。中学時代から石塔調査が好きで地元福岡の石塔や石像を調べていました。当時はあまり石塔研究はされてなく、今でこそ一般化された石塔の銘文研究も当時はあまりされていませんでした。ですから若い頃は沢山ある石塔を片っ端から見て記録していました。

ある日、師事していた先生から石塔研究ばかりしてはいけないと言われました。当時は石塔研究が手一杯で、その意味が理解できませんでしたが、今になって、石塔を見るということは、そこに関わる人々の思いに触れることだと思うようになりました。石塔は人々の願いがこもった信仰の遺物です。その石塔がどのような思いで建てられたのかを紐解き、私自身の人生の指針となるような気づきをしてみたいですし、訪れる皆さんにも是非して欲しいと思います。

今年は、石塔がテーマの本ではなく『未来をひらく!空海さんの教え ~弘法大師に学ぶ これからの私たち』という本を出版しました。このように、多方面から高野山を発信していけるように活動していきたいです。

木下 浩良(きのした ひろよし)

1960年福岡県生まれ。1983年高野山大学文学部人文学科国史学専攻卒業。 現在、高野山大学密教文化研究所受託研究員、高野山清浄心院文化歴史研究所所長。

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